ナボコフ『カメラ・オブスクーラ』について

ナボコフ『カメラ・オブスクーラ』(光文社古典文庫)を読んだ。解説で言っているようにナボコフの技巧は関心する。映画を見てるように視点が切り替わり、そして各々の視点は重要なものを見ているようで(クレッチマーの事故現場を見る老婆と飛行士など)、まったくその視点は一点へと収束される様子はない。個々人はまるで自らの視点を幻想として眺めているかのように、あるいは過ぎ去っていく窓の外の風景のように話は進んでいく。

盲目となったクレッチマーが実際にはそうでないにもかかわらず、すべてがうまくいっていると考える箇所では、些細な描写がこのようなくいちがいをうまく表現する。

 

クレッチマーは憮然としてうなずきながら、自分には見えないさくらんぼをゆっくりと口に入れ、手のひらに見えない種を吐き出すのだった。

 

それまでは決して風景に描かれることがなかったさくらんぼをクレッチマーは食べる。見えないけれども誠実な姿でそこにいるマグダを想像することと同じく、読者にとってこのさくらんぼはクレッチマーが調子よく摘み出す幻想ではないかと考える。さくらんぼは、もはや好きなように動き回って手で掴むことができないクレッチマーにとっての最後の果実である。そしてこのシーンは最後にこのような描写で終わる。

 

ホーンはあくびをしながら、テーブルの上の皿に盛られたさくらんぼを掴み取り、庭に出ていった。

 

問題なのはこのようにして見る光景そのものが幻想でしかないということではないだろう。小説はナボコフのような巧みさではなくとも、簡単に再認によって真実らしさを描くことができる。しかし適度にあしらった真実らしさというのも幻想だろう(ロリータの出落ち序文、あるいは青白い炎の注釈という壮大なズッコケを参照)。我々が適宜判断するのはその場面において幻想が何なのかということ、カメラ・オブスクーラなのか、マグダなのか、あるいは他の…。